ショートショート【小さな虫の一生】

「受け入れなさい、全てがあなたに、祝福となって降り注いでゆくのを…恩寵を受け入れれば命は芽吹く」

何者かが語りかけた…土の中から目覚めたその小さな虫は無意識のうちに頷いた。寒さから身を守るためには落ち葉の柔らかな暗闇に居れば十分で、周りには同じように生きている仲間たちの吐き出す二酸化炭素が漂い、それはさながら彼にとっての子守歌であった。彼が自分を何者であるのかと意識したのかどうかは定かではない…目覚めてからの間ずっと微生物を食べ、身体が大きくなるにつれて彼は…その他の生き物と全く同じ摂理で…自分よりも小さな生き物を口に運ぶようになった。そのうちに手足が自由に動くようになり、どうやら自分は飛べるらしいという確証が彼の内部に生じた時、初めて視界が開けて光が満ち溢れるのを感じた。小さな虫である彼は思い切り息を吸い込んだ…世界は七色に輝き、恩寵に満ち溢れていた。仲間たちも彼に呼応し、春の麗かな日に皆で一斉に仄暗い落ち葉の臥所を蹴って飛び立った。息をする間もない、一瞬たりとも意識を静止させることさえも出来ない…それからの日々は目まぐるしいものであった。光の満ち溢れる間彼はひたすらに食事の為に果てしない周囲を飛び交った、ともすると見当識を失うほど夢中になって飛んでいた。すると今度は暗闇が彼を覆った…この暗闇の期間、彼は飛べずに居たのでその時ようやく、自分、というものを悟ったのだった。月の晩、仲間が言った。

「僕たちは次に何をやればいいのか…」

それは暗に解っている事でもあった。相手を探すのだ。仲間の顔を見ると結構な数が減っていることが分かり、彼は不安を覚えた…生まれて初めての不安であった。川辺の葉の上で、どうにかこの、生きる事への不安を、希望に変える事は出来ないかと思って居たところ、唐突に彼は歌い出したのだった…自分でもわからない歌であった。小さな虫の小さな吐息の歌は周囲の草原へと広がっていった。それは虫たちにしか聞こえない、虫たちにしか見えない微かなヴェールのようなもので、それが土の中にまで浸透してゆくのを彼等は楽しんでいた。しかしその歌は悲しみの歌でもあった、というのも、彼らの宝である卵を産み付けるだけの落ち葉の森がなかなか見当たらなかったのだ。仲間が言った。

「故郷は何処にあるのだろう?」

そこではじめて彼らは自分たちの生まれた場所へ赴き、そこが既に何か醜い岩の塊のようなもので塞がれて、土が死んでしまっているのを目の当たりにしたのだった。小さな生き物であるところの彼は絶句して息を止めた。仲間たちも歌うのをやめ、周囲に静寂が広がった。そして暗闇の中、彼らは彼らなりに必死で計算をした。

「もうすぐ終わりが来る」

それまでに果たして約束の地、新たな故郷を見つけ出し、世代を繋げることが可能なのかどうかを切れ切れの言葉で話し合った…しかし時間は無かった。小さな虫である彼は、食事と、それにまつわる捕獲労働…つまり日常に忙殺されていた。新天地を今この時点で見つけ出しに行く労力も、それに見合う食物も、彼には無かった、彼らには無かった。…さて、虫の祈りというものが「在る」とわかったのはそれを感知した存在が居たからである…虫たちの婚礼賛歌はいつしか祈りの哀歌に取って代わっていた。夜になると彼らは祈りの歌を口ずさんだ。

「どうか我らに約束の地を」
「どうか我らを救い給え」
「命を繋げさせ給え」

祈りが通じたと彼らが感じたのは、捕食活動時に偶然、小さな雑木林を見つけたことだった。もう時間が無かった…朝晩の空気は冷え冷えとして、彼の手足は動きにくくなっていた。割合で言えばかなりの少数者だけが婚礼に参加した。彼は離れた場所から言った。彼にとっては誰の子であれ子孫は子孫であった。

「この子たちには約束の地を見つけて欲しいものだ…」

それでもまだ空気は甘かった、朝の光は彼を幾度も慰めた、異性の香りも彼を心地よくさせたが、しかし彼および彼の仲間の過半数は孤独が宿命づけられているのを受け入れていた。小さな虫であるところの彼は、食事の合間に目的の無い詩をいくつも歌った…それを歌う事の出来るほどに、彼の食欲は減っていたのだ。世界は輝いていた、全てが自分を生かすために在るということを彼は悟っていた。その時何者かが彼に語りかけた。

「受け入れなさい、今、全てがあなたに毒となって襲い掛かってゆくのを…今までの恩寵の全てがあなたに、毒となって襲い掛かってゆくのを、祝福を以て受け入れなさい、そうすれば命の輪に入る事が出来る」

突然彼の手足は動かなくなった、今まで吸い込んでいた優しい空気も冷たすぎて彼の喉を焼いた、甘い花の香りも今となっては苦しいばかりで、仲間の呼応も聞こえなかった。昨日に彼が捕獲し、噛んだ小型の虫が、寒い冬に備えて自らを肥えさせるために彼を美味そうに食んでいるのも見えた、今まで快適だったすべてが最早自分には強烈過ぎるのを彼は感じていた、この世の何処にも居場所が無いのを感じ、彼は泣きたいのを堪え、静かに頷いた。

「これでいい、これでいい…」

幼かった彼が喜んで食べていた微生物が今度は彼を食いちぎり出した、痛みは無かった…彼はいつの間にか落ち葉の間に積もる土の塊になっていた。彼は消えゆく意識の中で呟いた。

「どうか明日は、次の朝目覚める時、あるいは次の朝子孫が目覚める時には約束の地にたどり着けますように」

およそ全ての生き物がこの、祈りとも願いともつかぬ欲求を抱いて一生を終えるのを、小さな虫である彼は無意識のうちに悟ったのだった。