ショートショート【水晶の峰々】

ついにこの夜がやって来た。

熱が出て苦しいと言って妹は手を伸ばしてきた。僕はその手に水晶を乗せてやった…妹はそれを握り締め、何かを祈っていた。妹は言った。

「わたし、死ぬの?病気をみんなにうつしながら死ぬの?」

僕は首を振った、ともすると死ぬよりも後味の悪い事になるんじゃないか…そんな嫌な予感がして窓を閉めた、妹が咳込む声が外に漏れないように。通気口も塞いだ。何処で誰が聞いているとも限らないのだ。妹は生まれつき身体が弱く、ちょっとしたことで風邪を引いた。人ごみを長時間歩いたり、疲れたまま仕事を続けたりするとすぐに体調を崩して寝込む羽目になる。そんな妹を儚げで可愛いと言い寄って来た男も、不吉な2020という年号を跨いでからはさっぱり音沙汰が無くなった。

熱が出るだけまだましなんだと僕は考えていた。こうして発熱するって事は身体が闘っている証拠なのだから。問題は熱がそこまで出ていない事だった…せめて38度まで上がってくれたら…おそらくそのせいで咳が長引いていた。妹が手を差し出した…まだ年若い白い手だ。水晶が妹の熱を吸って生ぬるくなったから取り替えて欲しい様子だった。僕は隣の部屋まで行って、妹秘蔵の水晶の山(あるいは小さな小山の集合体)をいくつか持って来て、妹の寝ている傍に腰かけた。

閉めた窓から差す陽光を受け、熱を帯びた水晶は輝いていた。僕はそれを床に置き、代わりに新しい水晶を手のひらに置いた。水晶は熱伝導率が高い鉱石であるために、この作業は夜半過ぎまで頻繁に繰り返された。妹の周りには白く輝く水晶片が数えきれないほど散らばった。妹が言った。

「水晶の中に山が見えるでしょう?その山の中にわたしは行くの、そこには疫病は無いの」

疫病は無いよ、ここにだって在りはしないんだ、そもそもそんなものが仮にあったとして誰のせいだっていうんだ?咳をしている奴のせいか?と僕は言いかけたが口を噤んだ。どちらでも同じことなのは妹の方がよく知っているだろう。妹が寝入ったようなので僕は通気口を塞いでいた布を取り外し窓を開けた。部屋にたまっていた悲しみの空気が外気と混ざり合い、古いはずの空気はそのまま新しい空気となって夜へ逃げ出て行った。

夜空は清濁すべてを含んで静かに微笑んでいる風だった。遠くに峰々の陰がうっすらと見え、二羽の蝙蝠がすぐ目の前を輪舞していた。こいつ等は雨戸の隙間に入り込んできたりする汚らわしい生き物で、ひょっとすると妹の咳も蝙蝠のせいかもしれないと思った瞬間に僕は心が苦しくなった。すぐに気持ちを切り替えて、ハチミツとかりんの薬湯を作って自分も飲んだ。すべての出来事が外部要因によって左右されると定義づけるのは…生きる事の否定だ。

翌朝、妹は目を覚まし、ゆっくりと薬湯を飲んだ。そして言った。

「夢の中でわたし、蝙蝠になって飛んでいたの、でも殺されそうになって…あのまま殺されていたら…」

たぶん妹は肺炎を起こして死んでいただろうと僕は悟った。

免疫の働きやさまざまの動植物のもたらす菌、ウイルス、そういった全ての情報が交差し、僕たち人間に一見不可思議な物語を与えたりするのが、生き物の相互関係、生態系というものだ。害になるものをただ滅ぼせばいいという話ではないのだ。…それは自分自身でさえあるのだから。その後数日かけて、妹の寝床の周りに散らばった水晶片は少しずつ妹の部屋に片付けられていった。最後の一個になった水晶を妹が僕に手渡してきたとき、妹はすっかり元気になって微笑んでいた。

ついにこの朝がやって来たのだ。
いつだってそうだ、そうやって乗り越えてきたのだから、数多の険しい水晶の峰々を越えてきた、強い我が妹なのだから。