ショートショート【『珈琲代にでもしてください!』】

震度5強の揺れが辺りを襲ったのは、俺が仕事から帰宅し、夜11時間近の遅い夕食を摂ろうとしたその瞬間だった。東日本大震災の時もそうだったし、新潟の地震の時もそうだった、それ以外の強い揺れや台風の時もそうなのだが…仕方ない事なのだ。

「…それがこの仕事の使命だから…」

人間の暮らすための設備というものは、対地球、対宇宙で考えると当たり前だが脆いものだ。インフラストラクチャー…それも肉体的に即座に作用するという意味での生活インフラ、何で管ってものにすべてを詰め込み、血液のように循環できると信じ込めるのだろうか。俺は半ばやけになって素早く夕飯を食べ終え、丸一日着たスーツだけを何とか着替えてまた靴を履いた。主要線路は止まっているかもしれない…最終間近の夜のバス停は静まり返っていたがバスは定刻通りやって来た。

果たして…さっき一時間かけて帰って来た道を通って、あの湾岸沿いの会社までたどり着けるだろうか?俺は携帯で交通網を調べた。バスの内部の客は俺一人だ。みんなもう帰宅したのか、あるいは帰宅難民となって23区域に取り残されているのか?窓から見える住宅街は全く以ていつも通りに見える、マスクをつけるよりも前と同じ、たぶん俺が生まれるよりも前とほとんど同じだろう、ああー…俺はこんな夜中に何をやってるんだろう?丸一日働いて、それから眠りもせずにまた一日働き続けに行くなんて…そんな事を考えている時だった、唐突にバスの運転手が車内マイクを使って語り掛けてきたのだ。

『お客さん、お客さんはあれですか、今から駅まで行かれるんですか?』

公共機関内で全く突然私的な会話を、運行業務中の判で押した陰のような男から為されるというのは…三十余年生きてきて人生初だった。バスの運転手というのはそもそも若干高圧的だ。早く座れと言ったり立ち上がるなと言ったり金を払えと言ったりするのが仕事の連中だ。俺はそんな先入観から、この運転手の言いたいことを勝手に予見した。

…ああこいつは、もしかして、駅まで行っても無駄だから、もし可能であれば早く降りろ、そのほうがこっちの仕事が楽だから…そう言いたいのではないか?いい気なもんだ!こっちはインフラに危機が訪れるたびに自衛隊の有事並みに真夜中だろうが早朝だろうがお構いなしに駆り出されるってのに…。よって、俺は反射的に言い返した、なんだかマスクが分厚く感じる、しかし言ってやらねばなるまい、俺は声を張り上げた。最早昨日と呼んでもいいはずの一日の疲れが今になってどっと出て、さらにそこに、本来明日享受すべき分の謎の元気も追加されたみたいな妙な気分だった。

「電車は止まってるかもしれませんが、こっちは行かなきゃならないんです!それが私の仕事の使命なもんですから!もし止まってたら止まってたでレンタル自転車使ってでも湾岸区域まで行きますよ私は、何としてでも会社に辿り着かなきゃならないんです!徹夜覚悟ですよ!」

徹夜覚悟どころか会社に辿り着いたら、この未明からさらにもう一昼夜、俺は働き続けるのだ。俺のこの回答に運転手は戸惑った様子だった、運転手は言った。

『…そう…なんですか?それは大変ですねえ…電車は動いてるんですかねえ?中央線は駄目みたいですが…そうかあ使命かあ…』

そこで俺ははたと気が付いた、どうやらこの運転手、他意は無いらしい…ただ単にすごい地震があったようだけどどんなもんかと、客一人しかいない状態だから俺に語りかけてきただけだったようなのだ。それを俺はマジになって返してしまった…ああ、なんだか気恥ずかしい。カッと頬が熱くなった。髪をかき上げた手を無意識的に見つめてやり過ごそうとしたが、暫くは俯くしかなかった。

しかしこの運転手はすっかり仕事の仮面を脱いでしまったらしく、まだ何やら一人呟いていた、俺はそれとなく相槌を打った、悪い気はしなかった。今、このバスの中はなんだか運転手の部屋の中みたいだなと思ってふと顔を上げると、もう駅が見えてきていた。終点だ。ロータリーにするりと滑るようにバスは入ってゆく…よかった、京王線はネット情報通り運行しているみたいだ。暗がりの中、駅の明かりを軸とした影絵のように人がまばらに動いているのが見える。本当に何も起こっていないみたいだ。地震どころか疫病さえ起こっていないみたいだ…。自転車で海まで行かずに済んだのを密かに安堵しつつ俺は下車しようと先頭のほうまで歩いて行き、運賃精算機にいつものように携帯をかざして支払いをしようとした。その時だった。

運転手が左手でさっと運賃精算機を覆った。
俺と同年代の男の手が見えた。
こいつはたぶん俺と同じように生きてきた普通の男なんだ…その時に何とも言い難い深い共感めいた感覚が沸き起こった。
運転手は言った。

『お代は結構です!お代は…珈琲代にでもしてください!お仕事頑張ってください!!』

たぶんいつもの俺だったら何だかんだ言って規則を守ろうとしたと思う、社会的な仮面をつけてしまっていたと思う、しかしその時の俺は素顔のままで彼の提案を受け入れた…まるでひと眠りしたすがすがしい朝の如く、俺は我ながら明朗に答えた。

「…では、お言葉に甘えて!ありがとうございます!!頑張ってきます!!」

社畜だろうが奴隷根性だろうが構わない。俺はそれでいいんだ、これでいいし、これが俺の生き方なんだ。これが俺なりに出来る世界の支え方なんだ。俺は胸に熱いものがこみ上げてくる中、地震でぶっ壊れたインフラ網の修繕係と成るべく、終電間近の電車に乗って湾岸部まで…嬉々として赴いたのだった。