ショートショート【聖女の嘘】

活動修道会医療支部の発足を遡るとそれは骸骨崇拝時代と揶揄されるカタコンベ時代にまで行き着くと言う。この活動修道会は病人への奉仕…いわゆる現代で言うところの看護婦業を修道女たちが担っていた。看護婦と唯一違うのは彼女らがベールを被って常に祈って作業をしていたことだった。祈りながら水を汲み、祈りながら病人に食事をさせ、祈りながら排泄物の処理をした、もっともこの祈りは内的なもので、表面上は普通に会話し、普通に働いていた。またこの活動修道会には一人の聖女が居た。これが通常の病院と大いに違うところであった…彼女の出生届と照らし合わせるとその時で六十を越す、当時としては長寿なほうであった。聖女は病棟の一室に他の患者と同じように横たわり、酷く悔やんでいた、聖女になってしまったことを悔やんでいたのだった。

シーツを取り換えに来たという看護修道女と聖母マリアの挨拶を交わすと痛みをこらえて聖女は起き上がり、すぐわきに備え付けてある長椅子に身を移した。看護修道女はカーテンを開け、戦争が起こりそうだという世論を避けるよう自分に言い聞かせながら聖女に話しかけた。「聖女様のお世話の出来ることを栄光に思っております」すると、人格者であると専らの評判であるかの聖女は苦痛に顔をゆがめるような表情をして吐き捨てるように言ったのだった。

『そのような考えは捨てなさい!捨ててしまいなさい!なんて馬鹿な事、私が…聖女だなんて!聖女だと皆に自分を崇めるのを心地よさから許した罪にこれから裁かれるのですよ、私は天の国に於いて大罪人です、自分のやったことと言えば聖母マリアを見たこと、ただそれだけなんですから…そしてあれは、私に対して現存をお示しになったのではなく…ああ、この世の最も穢れた罪びとに姿をお見せくださっただけなのです、いいですかもう二度と私を聖女だと言ってはなりません、もう二度と!』

聖女のあまりの剣幕にうら若き看護修道女はたじろいだ、確かに老衰し切った身体には病の症状が見え、それが聖女の精神までもを蝕んでいるらしい…しかし聖母マリアの姿を見るということそのものはどうしたって祝福に違いないのだと看護修道女は信じていた。また一方で何とかして死ぬ間際の聖女から聖母マリアについて聞き出す事、これが彼女に活動修道会側から内密に課せられた仕事でさえあったのだ。【従順で在れ、しかし時に…大いなる存在への導きを感じたのであれば世間に対し不従順で在れ】看護修道女は廊下に飾られた標語を思い出し、内心聖女に謝りながらも質問した。「では…この世の最も穢れた罪びとであるあなたにお見せくださった姿というのは…どんなものでしたの…?だって…私も罪びとですもの、罪びとならマリア様が見えるかもしれませんもの」

『本物の罪びとでない人には見えやしません!話したって見えやしません!あれが…悪魔の幻影だったのならどんなにましだったことか、あれが本物であるとわかるから、厄介なのです』

その後もしつこく尋ねたがとうとう老いたる聖女は黙ってしまった。晩になった。医師がやせこけた聖女の脈を測って目で現活動修道会院長に合図をする、もう終油の秘跡が近い事を示しているのだったが、聖女は全てを察してか首を振るのだった。それが死を拒む意図ではなく、自分が祝福に値しない者であるという頑固な意思表示であることは誰の目にも明白であった。しかし聖女が何故頑なに自分を卑下するのかを知るものは無かった。

翌朝看護修道女が覚悟をして部屋に入ったとき、死にかけの聖女は持ち直し、ベッドに横になっているものの元気そうであった。「秘跡は…いつでもできますものね、今はその時ではありませんね、こんなにお元気そうですもの、あの、何かなさりたいことはありますか?」その問いに聖女は紙とペンを持ってくるようにと言った。所望品を手にした聖女は震える手で何か書こうとしたが、すぐにペンは皺だらけの手から滑り落ち、冷たい病院の床に落ちた。握力はここ数日でかなり弱くなっており、ペンを握る事さえも難しいほどに衰弱していたのだった、看護修道女が拾い上げて手渡したペンをやっとのことで握りしめ、聖女はため息をついた。

『もっと描いておけばよかった…』

「絵を、描くのがお好きだったのですか…?」この咄嗟の問いかけが功を奏したらしく聖女は微笑みを見せ、昨日とは違って一気に打ち解けた様子になった。この活動修道会には一つの聖品がある。それはまさにこの聖女が描いた聖母マリアの絵であったのだ。この絵を版画師に頼みシンボルマークに加工して、この修道会発祥の身に着けるお守りが世界に向けて販売されているのだった。…現にこれは貴重な収入源となっており、このお守りの存在については知らぬものは無かった、しかし若い看護修道女はお守りとなった聖母のシンボルマークは知っていたものの…当のお守りさえ身に着けていたにも関わらず、その元の絵を描いたのが目の前の聖女その人であることを知らなかった。何故ならこの事こそを聖女は伏せていたのだ。

『聖母マリアよ今も臨終のときも祈り給え…そうよ、でもね、私嘘を描いたの、聖母マリアのお守りの絵を描いたのも私よ!でもあれこそが私の嘘なの、みんなの見たいものを描いてあげることが人のためになると思い込んでいたの、人が見た時…それが全く芸術に通じていない人が見た時にも心地よく感じる物を描いて利益を出すことが正義だと思い込んでいたのよ、浅はかな正義…安っぽい芸術…普遍的であることが善い事だと…だから本当に見たものを私、描かなかったの、信仰に関して私は嘘をついたのよ!それで聖女と呼ばれていい気になっていただなんて…これ以上救えない話もそうそう無いでしょうに』

「だから終油の秘跡を拒んでいるのですか?」

『ええ、だって…ああ、私の見た聖母マリアは…何も誓わずとも導いてくれる方、何も誓わずともお許しになられる方、何も誓わずとも、何の生贄を差し出さずとも、何の秘跡も施さなくとも奇跡を与えられる方なんだもの…彼女にはありとあらゆる儀式は不要なのよ、儀式は不必要なのよ、でも祈りは必要よ、祈りは、人間から神への伝言に過ぎないのだから!心を神に向かわせるためにも祈りというものは人間のやるべきことなのです!でも神の為に儀式をする必要は無いのです、秘跡や聖別は、生贄を求める神の要求に過ぎません、そんなものを人間が行うなんて…これほど傲慢なことはありません、それが出来るのはイエスキリストを於いて他は無いのですから!』

聖女の思わぬ宗教的真意にさすがの看護修道女も面食らった。これは教会の規律とは相反する思想であった。聖女の激昂に感化されてか…急に雨が降り出したので反射的に窓辺へ行き、まだ明るい午後ではあったが窓を閉めようとして聖女に止められ、振り向いた、聖女は懇願するような目で若き看護修道女を見つめていた。仕方が無いので窓は閉めずにおくと聖女ははじめて安堵したように胸を撫でおろす仕草をした。「あなたは…何を見たのですか?」

『口にすることは出来ません、ああ、ああ…生命の半分が、丸半分が死で出来ているとわかれば…』

聖女は気力を振り絞ってペンを手に取った。すると昔の思い出が蘇ってか子供時代の懐かしい面々が彼女を取り囲んだようであった。亡霊たちが遊びに来ているわと聖女は呟き、それでもペンを握り締め、何とか描いていた。『絵を描くと村の子供たちがみんなやって来たものよ、それが綺麗なものであるのなら目を輝かせて見入っていたっけ…ああいう時には人間の善の面を引き出せるものよね』…聖女の、会話とも独白ともつかぬ独り言に看護修道女は曖昧に頷いていた。人間が善であって欲しいという気持ちで自分は嘘を描き、聖母出現以降絵筆を折りついに臨終間近になるまで描くという行為を封印していた、そんな思いが聖女に最後の一枚の絵を描かせていたのだった、描き終わるや否やその紙を聖女は震える手で掴みながら看護修道女の眼前にさっと突き出した。。

それは骸骨の絵であった、聖母マリアのマントやヴェールを身に纏った骸骨の絵であった。看護修道女はぎょっとしてその場に凍り付いた。

『私が気狂いだったらよかったと、あなたは思っているのでしょう?安心なさい、何よりも私自身がそう思っていますよ、善いものを見た時に人間の善が引き出されるならば、善いものを描こうと思ったの、でもそれこそが…傲慢この上ない行いであると私は気付けなかったのよ、何かの為に何かをする、人間的尺度での善のために真実を曲げる、そんなのは真の信仰ではありません、それにキリストは言ったはず、偽りに誓ってはならないと…!!私は美という偽りに誓い、自分を売り渡したのです、銀貨30枚よりももっともっと高値を付けて自分を売ったのです!!それがこの世ではとんでもない利潤を生みました。ああ、光を放つ聖母のお守りがこの病院存続の為にどれほど貢献したかわかりますか?幾人の命を救ったかわかりますか?それでも信仰に於いて背いていた罪から私が逃れられないのを…あなたも理解しているはずです。利潤で弱い人々を救うと言うのは一見崇高に見えますがそこに嘘が混ざっていたならば、そんなものは、キリストへの神秘の塗油をするのは金の無駄だと言った、かのユダの策略でしかないのです!美しい聖母マリアを描いて利益を得た私は…祝されるどころか、永久に呪われるべき存在なのです…ああ、それでも戦争になったらここも兵隊たちの場所になってしまうのでしょう、この街も爆撃されるのかもしれません、全てが塵芥に帰すのです、無に帰すのです』

「…でも、聖母はお守りくださるのではないでしょうか…?だって、それをお守りにするようにとお命じになったのでしょう?それすら…?」死にかかっている割に世論を把握している聖女に看護修道女は問いかけた。最早この聖女が商才に長けたただの老女であるという疑いは止められなかった。それでもこの老女は確かに何かを見たのだ、それだけは確かな事であったし、彼女が長年看護婦長として…本当に数週間前に倒れるその寸前まで、何十年もの間一切の個人的見返り無しに、給料も無しに医療に従事してきたこともまた事実であった。

『噓ではありません、お守りにすることで身が守られると告げられました、でも…それはこの…骸の姿をした聖母マリアなのです、これをお守りにするべきだったのです、真実を描くべきだったのです、生きているということは、真実を表明するための活動だったと今、死ぬ間際になってようやくわかったのです…』

今や聖女とも商人ともつかぬ老女はそう言って、震える手で描かれた骸骨の聖母の一枚を相手に突き付けるその腕がついにがっくりとベッドの上に落ちた。握りしめたままのそれはお守りと言うよりかは最早呪いの呪符のように見えた。唐突に呆けだした老女はまた傍に亡霊たちがやって来たらしく、子供たちの頭を撫でているような仕草をしていた。雨は降り続け、聖女らしき老女は夜半に死んだ。

翌週から爆撃が開始され、病院は…この看護修道女の隠しておいた骸骨の聖母の素描もろとも跡形もなく焼き払われた。

それから半世紀以上経過したあるとき、地球の別の場所で、老女の描いたのとほとんど全く同一の骸骨の聖母が祀られるようになった…この二つの出来事の類似性を知る者も、それが全くの偶然の一致なのか、人類というものの集合的無意識の成せる業なのか、この神秘を解き明かせる者も、聖女の嘘を知る者も、この世の何処にも居ないのであった。