ショートショート【S子の膀胱】

隣に越してきた一家の目覚ましが鳴った、ぼんやりと時計を見ると真夜中の三時過ぎだった、またトイレの時間だと老いたるS子は思い布団を這い出て、狭いアパートの部屋の中を数歩先の便所へと息を殺して向かった。熟睡するなどという行為はこの数十年出来ていなかった。痛い、夜空に浮かぶ月が真っ二つに裂けるような幻想を伴う痛みをS子は感じていた、膀胱は破裂しそうであった、一時間前に用を足した時からそうであった…夢の中でよく思い切り放尿することがあった。それは遠い昔の記憶で、どこかの山へハイキングへ出かけた折、しゃがみこんでその辺の草原に放尿した記憶だった、尿は不可思議な勢いでS子の小さな膀胱から大量に放出され、草や土に染み込んでいった…まだその時は何の痛みも、内臓が破裂する恐れも無く、力を込めて体内の水分を出し切ることが出来たのだった、あの時垂れ流した自分の尿の一部はまだ土となって残っているのだろうか?

まるで過去の幸せな思い出に縋るような想いでS子は山奥の土を思った…それでも当時からS子は不器量で、愚鈍で、学友の誰も彼もから…実際に友達も居らず、特に男子生徒たちから疎まれていた。自分がただそこに居るだけで暴力の対象になる事がよくあった、女生徒たちも彼女を無視した、一緒に居るとS子と同じぐらい不器量に成り下がるという恐れがあるらしいのをS子本人も薄々感じていた。子供時代のS子は大人になる事を切望していた。

『大人になったら、もっとすべてが平等になるはず』

その願いも虚しく、思春期を迎えるころから男子生徒からの嫌がらせはエスカレートし、過疎化したその地域の大多数が、S子を見かけると何かしらちょっかいを出すまでに至った。引きこもるなどという選択肢は無かった、かくしてS子は上京し、小さなアパートを借りて一人せっせとその日を生きるようになった…その時から膀胱が予期せぬ動きをするようになったのだった。

初めはただの頻尿だと思った、しかし事態は職場で失禁してから暗転した、失禁という大失態をしたにも関わらずS子の膀胱は破裂していたのだった。たまにS子は心底不思議になった、何故自分がこのような同情されにくい不具を体現せねばならないのか心底わからなかった、彼女は常に被害者で、弱者で、一度も加害行為をした事も無ければ強者になったこともないはずだった、世界がもっと平等であればとうに自分は報われているはずだと彼女は思った。その職場を後にしてからは常に膀胱との闘いであった。

月の光が隣の一家とS子の部屋を照らしていた、世界というものが根源的にはたった一つの要素で出来ているように思える瞬間…何かの核心に触れたように思える瞬間が、この哀れな老女にもたびたびあった…そのような瞬間にS子は恨みを感じていた。たった一つの地球、人類という生命、それらは詰まるところ個々に分散したように見えるだけなのだ、大きな何かを分け合って皆、それぞれの身体を形成している。多くをもらい受ける者もある一方、自分のような理解されにくい欠落を持つ者も居る、多くをもらい受ける強者たちは、分け前をくれたっていいのではないか?
S子は昼間は清掃員として働いていた、それは極度の膀胱過敏症に適した仕事でもあった、好きな時に用を足せるのだから…現場は市の施設だったり保育園だったりした、S子は自分の人生を人に言うのを憚った、男性経験も無く、失禁事件以来これといった定職に就いたことの無いS子はいつも、自分のことを人に話すときには一言、『幼稚園で働いています』と言うのだった。そうすると大抵の相手は自分が保母だと勘違いしてくれ、結婚もしておらず定職にも就けないのを根掘り葉掘り聞かれずに済むのをS子は知っていたのだ。

最近越してきた隣の一家の園児はまだ未明だというのにベランダに出て叫び出した、『トイレのおばちゃんトイレのおばちゃんトイレのおばちゃんいつでもおしっこトイレのおばちゃん』その童謡じみた言葉に節をつけてけらけらと笑う黄色い声が周囲一帯にざあっと響くのをS子は青ざめながら便器の上に座して聞いていた、唐突に強烈な怒りがこみ上げ、その園児を職場の保育園の便所で絞めあげて殺す幻想が繰り広げられた、無論本当にやるわけではないのを彼女はわかってはいた、だが怒りは止めようも無かった。

S子は念じ、宇宙に問いかけた。
何故自分が、一かけらも悪い事をしたことの無い自分がこれほどまでに蔑まれねばならないのだろうか?
私は健康というものをおそらく大多数の誰かに生まれながらにあけ渡した、健康な膀胱を誰かに譲った、生まれるより前に譲ってやった。
私は容姿というものをおそらく大多数の女たちに生まれながらにあけ渡した、可憐だと言われる要素を誰かに譲った、生まれるより前に譲ってやった。
睡眠という代えがたいものをも、おそらく今現在、大多数の誰かに手渡しているのだ、世の中の一定数が不眠に陥らねばならない摂理が宇宙にはあって、その摂理は残酷だけれども自分がそれを担っているのだ、眠れている人間にはわからない苦労を毎晩、毎晩、毎晩……それを、全くこの種の苦労を知らない誰かに打ち破られている、恩寵を受けているのを自覚すらせず、野放図に繁殖する誰かに打ち破られている。

自分の苦しみは何のためにあるのだろうか?
身体の弱い人間の日々の労苦を、健康な人間は知らない、それが健康な人間をますます傍若無人にさせている。
私は病気なのだ!!
私は、おそらく宇宙の摂理で言えば大多数の健康の為に、病気で居るのだ!!
それなのにそれなのに、それなのに…!!!

便座から立つと、血尿が床に滴るのも構わずにS子は自分の部屋の襖を思いっきり開け閉めした、白髪が目にかかったが、まるでそれすら他者であるかのように払いのけ、S子は気の狂ったように小さな畳敷きの我が部屋の戸を散々に開け閉めして音を出した。日々の頻尿による眠りかけの早朝に、この一家の起床時のドタバタや園児の声、頑是ないとはいえ我慢ならないのは、子供をちっとも𠮟りさえしない親たちだった、彼らは確かに、その時までは何処かでS子を無力な老女だと侮っていた。
侮るという認識さえ無しに、居るのか居ないのかわからないS子、どう考えても…初老で、きちんとした職も無く、その日暮らしをしているらしいS子を人畜無害と思って居るらしかった。
S子は力任せの襖の開け閉め行為を止めた、数分経っていた、外はうっすら明るくなりはじめ、月は霞がかって光を失いつつあった。

『死のう』

S子はふと思い立った、根源的な世界でS子は誰とでも分かり合えると信じていたが、現実がそのように出来ていない事…主に自分の膀胱がそうできていないばっかりに、清掃員のパート以外にはまともに働くことさえ出来ないのをS子は嗚咽を漏らして悔しがった。容姿はもう仕方ないと子供時代に諦めていたが、稼げないのでこのような…おそらく路上生活寸前の安アパートに来ざるを得ないのだ、だから隣の音が気になるのだ、まさに障子一枚隔てたような環境で暮らしているから、頻尿も酷くなるし音で目が覚めてしまうのだ、死ぬべきは自分の方なのだとS子は自覚していた、この世に不必要なのは自分の方で、そんな自分が羨み、恨んでいる健康な人たちこそこの宇宙に必要なのだとついに悟った気分になっていた…怒りの発作が過ぎ去った後の虚脱は心地よくもあった。

『おしっこはでにくいのに涙はこんなにも流れるなんて』

S子が白髪頭の頭を垂れ、その奥で今や微笑すら浮かべていたその時だった、ドアチャイムが鳴った。S子は打たれたように立ち上がり、慌てて、きちんと着衣しているかどうかを確認し、玄関まで数歩進んでそっと戸を開けた。
さっきとは真逆に、今度は自分が騒音主として詰問をされるのではないかとS子は怯えていた、その怯えが相反してS子を極度の反射的怒りへと押し上げてさえいた。震える老女の唇を、目の前に立っている一家は凝視していた、S子が言葉を発するよりも早く一家の主と思しき…見るからに乱雑そうな男は言った。
それは意外な言葉だった。

「ごめんなさい、うるさかったですよね?すみません、いや…言い訳になってしまうんですが…その」男が言うには何かの仕事で早朝に起きざるを得なく、やんちゃな子供もどうしても目が覚めてしまい、ドタバタし、また部屋が部屋なだけにトイレに立ったかどうかまで聞こえてしまうのであのような歌を歌うのだ…そんな話だった、S子はそれを遠い宇宙か月の都から聞いているような心境で聴いていた。
「もしかしてー、ご病気、ですか?」
S子はぎょっとした、そこで男の妻らしき、見るからに姦しそうな女がこれまた意外なことを口走った。
「あたしは施設で働いてるんでー、もしかして、膀胱関連の病気かなーと、思ってて、この子が、保育園であなたの事見かけるって言うもんで」
S子はわなないた、理由は自分でもわからなかった、そして絞り出すように言った。

『…そうなの、私、わたし、病気なの、膀胱の病気で、一時間に一度はトイレに行かなきゃならなくて…それで』

朝にようやく少し眠る事、年中腹部を冷やさないように気を付けねばならないこと、常に膀胱破裂の後遺症で痛みが在る事…明けの鳥が鳴く時にはじめてS子は自分が騒音一家の目の前で自らを吐露し、泣いているのに気が付いた。
男の妻が香りのついた安物のティッシュをS子に差し出した。

翌日、彼らはまたやってきてS子に菓子折りを渡した。それらからも彼等は時折S子を訪ねては差し入れをした。S子もまた詫びるような気持ちで手土産を渡したりした。S子にはわかっていた、このような狭い場所に一家が暮らしているのだから音が出ないはずがないという事を…。相変わらず夜明け前から彼らは起き、彼らなりに静音を心がけながらもそれでも戸の開け閉めから何から何まで五月蠅い事には五月蠅かった、それでもS子にはわかっていた。

彼らもS子をしっかりと認識していることをS子はわかっていた、それどころか、この孤独な老女にとって持病を理解してくれている代えがたい存在にすらなっていたのだ…それ位彼女は孤独だった、外部の人間のほとんどを羨み、憎み、頼るという事を一切してこなかったのだ。心を開くことを一切してこなかったのだ。今では隣家の物音は近しい人間の発する無害な音へと変化していた。例えば家族の誰かが調理する音、誰かが鼻歌を歌う音、世界の誰かの音。

皺の刻まれた顔でS子は月を見上げた、痛みはあったが月はすっぽりと丸く、すべてが一つに収まっていることを未明の空で煌々と体現しているのだった。