絵を描く上でのアドバイス忘備録

絵の講師をしている知人から受けた私へのアドバイスをまとめておく。

①(私の書いた小説等の)イメージの中の登場人物を沢山描き出す事で世界観を大きくさせてみるのも手だ、内包している世界観は(小説を読む限り)あるのだから、絵でも一つの世界観を作れ

②一つ一つのモチーフを関係性や細かい配置や実際の奥行などを気にせずにどんどん書き進め、最後に背景などによって全体をまとめるように〆ろ

③絵の具の原色だけは絶対に使わないようにしろ、素人臭くなる、全ての色を混色して使え

④技法としては点描らしきものが向いているのかもしれないが小手先の工夫だけでゴリ押ししているとすぐに打ち止めになる、普通の技法+点描というふうに、絵の具同様混合して使え、素人臭さが抜ける

⑤その時の情熱とかそういう不確定要素や感情要素で絵を描き上げよう等と思うな、花壇作りや朗読機材や朗読自己稽古のように、理詰めまでは行かずとも、ある程度『思考』しながら配置などを決めろ

ありがたいお言葉である。実際もう点描画法は打ち止めなんだよなあ…私は絵を描くのが従来すごく好きだったのだが最近あまり描いていない。どうにも絵の具というのが死んでいる感じがして、乗らない絵の場合は死んでる感が凄くてうんざりしてしまう。花壇に熱中するのは何と言っても植物というのは結局生きているからだ。録音機材も生きている。私の声も(私が生きているのだから)生きている。労せずに『生きてくれる』ものにばかり固執してしまう。

それでも何故絵なのかというと、やはり根源的な性分がそこに在るから。『生きている絵』をコンスタントに描いていられたらどんなに幸せかを体験しているから。

たまに、絵を描かないタイプの人から、プロでもないのになんで絵を描くのかと問われたりもする。世の中の基準というのはプロになって金を稼いだり大成するという事が…幸せというよりも、何かをやるための強い動機として機能しているらしく、うまく話がかみ合わない。でもちょっと考えてみて欲しい…

大成するために人は旅行に行ったり散歩したりするだろうか?

お洒落をするのも服飾デザイナーになるためではなく普段の自分を楽しくさせるためだろうし、ジョギングするのもオリンピック選手になるためではなく自分の為だ、女の大半が人前に出る時には何らかの化粧を施しているが何も全員が女優を目指しているわけでも何でもない、旨いものを食うのはミシュランガイドの調査員になるためではないし、心地よく眠るのだって自分の為だ。

行為そのものが幸福や本能的心地よさや安楽をもたらす場合、行為についての説明など一切要らないように、絵についての動機など皆無である。

ただ一点、絵やその他芸術と呼ばれるジャンルのもたらす幸福には個人で完結する幸福とは異なる部分がある。それは、表現者が表現を突き詰めてゆく幸福を、分かち合ってくれる鑑賞者が存在する場合、一つの幸福が合わせ鏡のように増倍するという事だ。

だから花壇同様、私の行為の追求の先に鑑賞者が居て、その人が何かのひらめきを得たりするのであれば私はさらに幸福になる…これは否定しない。ただ、これが真実かというと微妙なところ。この世に於いては真実かもしれないが、表現というのはスポーツと同じでただの性分に由来しているので、ジョギングしている人は競争相手や鑑賞者が居なくても、世界の果てでもジョギングし続けると思うし、それと同じく私も鑑賞者が居なくても自分の庭同様花壇を作ると思う、花が咲いたら私は嬉しいし、絵筆を運ぶと身体の調子も上がる、性分とはそういうもので、それ以上の理由はやはり、無いのである。

世界の誰もが自分の幸福を追求し、それをコンスタントに実現出来ていたら…世界平和というものが訪れるのだと私は感じている。