ショートショート【「預言者イザヤと同じほど賢いのだわ」】

死にかけの老令嬢の部屋に繋がる磨き上げられた廊下の隅で、ひとしきり響く青年たちの卑猥な冗談と笑い声、さっと親族たちが彼等を制するが笑いは伝播し、正装の一同は…不愉快そうな者が半分、笑いをこらえて静かな痙攣をおこしている者たちが半分、見事に真っ二つに分かれた。

『大叔母様』である老令嬢の、18世紀から現存している部屋を指して若者がぽつりと漏らす…「大叔母様もその位前からいらっしゃるんじゃないか?」血縁の者が目を吊り上げてそれを制する。


「天国は空にあるっていうけどあたくし、煉獄は下にあると思うわ…入りなさいよ、それに聴こえたわ、この建物は古いから全部筒抜けよ…あたくし、いいと思うわ」

老女の声が響き、一同は広い寝室へ入る、皆の靴音だけが響き、誰も彼女には声をかけない。
「あなたの言ってた話…愛し合ってる女性を素っ裸にして夜の庭に放り出す、あるいはバルコニーに置き去りにして窓に鍵をかけ…散々泣かせてから猛烈に愛し合う、良いと思うわよ」
はじめに廊下でその冗談を言った青年はたじろぎ、仲間を見たが相手は肩をすくめた…まさかこんな話に、かの大叔母様…品行方正で由緒ある女性とされ、司教様からも女性の鏡とお褒めの言葉をいただいていた人物…彼女がこの話題に同調するなんて思っても見なかった、親族一同がそう感じて互いに視線を飛ばし合った。


「神様の言葉を、規則に規則、教訓に教訓、しきたりにしきたり…そんな風に取り違えては駄目よ、女には女の数だけ歓びがあるの、あなたの御愛人はそうなんでしょ?あなたは軽薄そうだけど、本当は預言者イザヤと同じほど賢いのだわ」
老令嬢は苦しそうに天蓋付きの寝床で上体を起こした。窓からは涼やかな日が差し込んでいる…まるで時間など存在していないかのようだ。
「…もっとも、誰もが素っ裸で庭に放り出されて、それでよろこぶというわけではないでしょうけど…でも少なくともあなたは一人の女を溌溂とさせているのよ、あたくしの夫がそうしたのと同じようにね、だからあたくし、あの人は世の中にとって…善い人間だと思って居るのよ」
青年は今更ながらに緊張して生唾を飲み込んだ、古くから伝わる家柄につきものの事情なのか、あるいは人間に共通した罪を、老令嬢は今、語りたいらしかった。
「幸福、それが全てよ…誰かを素っ裸にしてそれが成せるなら、全人類がそうしたらいいのよ、だってみんなが幸福になった方がいいもの、あたくしだってそうなりたかったわ…いえ、あたくしも幸福だったのよ本当は、幸福をみんなに表現することが出来なかった…ファリサイ人っていうのはまさにあたくしの事よ」
傍にいた神父が意を決して老婆の、品位に関わる言葉を遮った。
「お体に障ります」
しかし老令嬢はぴしゃりと言い返した。
「障るですって?もう死にかけよ!だからこうしてみんな集まって来たんじゃない?遺言も変更なしよ…死の間際に思うのは…あたくし、卑怯者だったって事よ、律法を重んじるために生きているのなんて馬鹿げてたわ、それが為に他の人まで巻き添えにしてしまった…他の人に済まないわ」
「…他の人って?」
青年は呟くように言葉を発した、その言葉に老令嬢は微笑んだ。


「すべての人よ…全ての人の善意を…神様の愛と呼べるものを…あたくし、規則に規則、教訓に教訓、品行方正に品行方正、貞潔に貞潔、そんな風に、言い換えてしまったの、そんな風に生きてしまったの、真意ではないという意味では偽りの演技をしていたのよ…長い間ずっと…だからすべての人に対して申し訳なく思って居るわ…今すぐ死んで、煉獄の炎で清められたいわ、ねえ、どうしたらいいかしら?長患いはもう嫌だわ」
青年は問いを振られたが答えなかった…答えられなかった。この堂々たる老婆に、まさか廊下で従弟たちと話したように、裸になって一晩外で過ごしたらどうか?等とは言えなかった。第一にこの老令嬢にはそれを受け止めるべき紳士のお相手も当然居ないのだ。さらに孤独になれとは到底言えなかった。
面会が終わって一同が屋敷を後にしても青年は考えていた。

…仮に生命の全ての欲求、死を含めた欲求、これを最終的に受け止めるものが在るとすれば…。

翌朝、この大邸宅の広大な庭地で手に十字架だけを握った素裸の老女がうつ伏せに死んでいるのが発見された。かくして『大叔母様』は死に、遺言は執行され、屋敷は跡形も無く解体された後、土地は地元の成り上がり者の手に渡った。一族は各地に散った。そのさらに半世紀後、一人の老人の遺体が素裸の状態で冬の山地…小さなコテージの目の前の、庭とさえ呼べそうな小規模な畑で発見されたが、それがかつての、かの青年であった事、そしてこの成り行きを知る者は、神を除いて最早何処にも居ないのだった。