朗読【仏教聖典】おしえ第三章※朗読中止

※仏教聖典については、次章から一気に宗教色が強くなり『仏の名を唱えれば浄土に生まれることが出来る』等という【仏陀が絶対言わなさそうなこと】が書かれていたので急遽読むのを中止しました。

でも、仏教聖典のほとけ1~3章、おしえ1~3章には空の概念も書いてあり、非常に面白く、納得して読んだ部分ですのでアーカイブは残しておきます。

ただ、私は個人的に『〇〇すれば救われる』系はカルト(子供だまし)認定しているんですよ。歴史があってもね。しかもその何かをすれば救われるという『なにか』が、念仏だったりお経だったり題目だったり…もうね、この時点で利己心全開じゃない?と思ってしまうのです。

(なのであまり救いという定義づけのない仏教なら肯定的です。空の概念とか。)

その点キリスト教全般は良いと思います。何故かというと『救いの定義があいまい』だから。洗礼を受けても救われるかどうかは現世に於いてはやはり不明、善人でも救われるとは限らない、悪人であっても救われたりする…救いに関して人間如きに理解出来るはずがないという潔さが聖書からも見受けられる。

勿論『〇〇すれば救われる』系キリスト教も存在するのは知っている。それにカルトだからといって一刀両断したいわけでもない。信仰心というものは甚だ不可思議なものだからだ(だから救いを定義づけしてほしくないという思いが私にはある)。

そしてその不可思議なものは私にも内在している。

仏教聖典を読んだ理由は『聖書を読んでいる』というと『キリスト教の人』という印象を与えてしまうからだ。

そんな理由もあって『聖書と仏教聖典を朗読している』と言えるのはとても都合がいい。そんなわけでどうしても仏教聖典に関しては惰性でやってる感が出てしまっているかもしれない。聖書みたいな熱量が無い。

私はやっぱり聖書が好きなんだなあ…と仏教聖典を読んでいて思う。

聖書が懐かしいのだ。

聖書にまつわる思い出や教団関係って皆無なのだけれども。