『木曾の山奥で岩魚を釣っている親爺でも、たまたま里の人に出くわしても何の好奇心もなく見向きもせずに路を横ぎって行くことがある。』
この文章を読むたびに、まるで自分の事のように感じる。
言い訳をさせてもらうならば…何故か、社会的に生きていた時よりも、厭世状態の今の方が実はだいぶ忙しい。
傍から見るとのんびり釣り糸を垂らしているようでも、岩魚親爺は何か次の季節、もっと言うと次の時間への現実的思索や工夫を巡らせており、実際に家の雑事や畑、罠猟などをやっている合間に、晩飯用の岩魚釣りをしているに過ぎない…生きるために動くという意味では、誰もがある種の働きをしている…そんな風にも思える。
時間って有限なので、暇人だと見下されながら絡まれるのはちょっとね。
…おそらく彼はこんなことを思っているのではなかろうか?
少し岩魚親爺に肩入れし過ぎか。