【朗読】遠野物語(前編1~54)柳田國男

遠野物語を許容範囲の音質で、執筆当時の柳田國男と同じ三十代後半のうちになんとか読み上げて公開したい!…これが念願かなってついにやり遂げる事が出来た。

今年に入って一度読んでいるのですが、今思うと本当に低レベルな音質だった。

朗読はともかく、録音編集って、私には…なかなか難しいものです。

(以下、主観的な話※朗読とはあまり関係ない)

今回、背景画像を素直に遠野にしてみたのだが…

情報というのは不可思議なもので、これが遠野なのかは果たして私には解らない。『遠野』と書いてあったからダウンロードしただけであって、富士山などと違い、一見ただの田舎の風景にしか見えないので、後ろの山脈を見てそれによって遠野郷だと判断できる人には理解可能だろうが…果たしてどのくらいの割合の人が、この画像を見て遠野を感じることが出来るのかも私には不明である。

また河童の話があるので淵や川の背景にしようかなとも思ったが…

これについても「普通の田舎の川にしか見えない」という理由から却下させてもらった。カッパ淵という立て看板みたいなものが立っている川岸(の画像)もあったのだが、自分自身、結構自然豊かな場所に住んでいることもあって「これならば家の近所の川の写真を加工しても遠野郷になるのではないか?」という不埒な考えまでよぎった。

何が言いたいかと言うと、遠野郷というのは、日本の原風景の宝庫なのであろう…ということだ。

だから遠野郷に行ったことのない人(たぶん大部分)にとってみれば、それが遠野であるのかどうかということは、実は、気付くことすら出来ないのである。

情報が本物なのかどうかわかるのは、本当を言えば、本物を知る人以外に居ない…遠野に住む人や現地に赴いたことのある人だけが、真偽の判断を下すことが可能だ。

『遠野』と書いてある画像を探したという点を、素直であると評価する人もいるのかもしれないが…何を隠そう、私は、この事自体についてとても懸念している。以前遠野郷の画像を使用しなかったのもこの理由からだ。

『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。

私が『遠野』であると『一方的に信じて』ダウンロードした画像が遠野でない場合、誰が悪いということになるのか?それを遠野であると信じた人はどうだろうか?

それについては…残念ながら、信じた方が悪いと私は思う。

柳田國男の言う通り、自分では現地に赴かず、鳴きも飛びもしないフクロウには、何が本物なのかを外側から断定することなど所詮、不可能なのである。

ひとつだけ強く思うのは、しかしながらそれでも『自分自身で真実だと直感した内面的真実』については、誰もこれを侵すことは出来まい。

よって私は敢えて言う『この背景画像は、私の内的心情で見た遠野なのだ』と…『イメージなのだ』と。

もっとも、それが他人に通じるかどうかは、永遠に不明なのである。

あとこの種の話、私が言いたいオチは『極論を言えば、人間はイメージを超えて外側から真実にたどり着くことは不可能』ってことなんだけれども、普段から直感型の人にとってみればこんなオチを敢えて言うまでもなく伝わっていると思うのです。

しかしながら…かなり抽象的に聞こえてしまう話でもあるので、私の文章って本当に(柳田國男の書く文章以上に)人に伝わりにくいのを感じています。

簡単な挨拶文で済ませるのも手なのだが、別にこちらも、朗読も…利益があってやっている行為ではないし、自分のサイトに自分の意見を書くのくらい良いのではないか?と思って、掲載している次第です。