ヒトと水と音の関係性その3(光と振動)

あと普段から思うのは、私には、言葉と音に差が無いのだ。

いつも夢を『見る前の段階』みたいなときに、もう言葉というものが音と同様に行き交うのを目にする。

実際の朗読の時にも、文章云々、意味云々ではなくて、あれ、全部私にとっては楽譜なのです。

…楽譜は読めないのだけれど、まあ楽譜。

私には色聴覚がある為、音読した場合は割と明白に『色の羅列と流れ』に見える。

その流れを追ってゆくイメージで読んでいる…よって、実は、入り込めない文章については全く『色が見えないので』読めない状態になる。(色聴覚自体は結構な割合で居るらしいので、案外多くの人に意味が通じていると仮定して書いています。)

しかもこれが厄介で、似た色になるもの(言葉や数字)にはルビ必須。

ちなみに元々は絵を描いていた。(全然文系ではないのです、なので推敲するのとかすごく苦手。)

田んぼの稲

元々は、絵を描くのが自分だと思っていた…物心つく前のアイデンティティみたいなものか?しかし人は変化してゆく。

全く唐突に(2020年からいきなり、なんのつてもなく)朗読という人体発生音楽?の世界に来てからは、絵はなんとなくインスピレーションが『遅い』感じがしてきている。

これを音にした方が速い

音の方が水に近いから、インスピレーション領域とこの次元での時差が少なくて済むのだろう。

話は逸れるが私は漢字が苦手なのだが、漢字は絵であるので、一度変換しないといけないし(時差)、自分自身その変換に手間取るし(二度目の時差)、実際に音そのものよりも遅いので…漢字も色と音で示してくれたらもっとわかりやすいのになあ~といつも思っている。

今のところ、水と音=言葉の親和性が一番この世で高速であるという認識だ。

また、宇宙全体で一番移動速度が速いのが光(光速/目に見える物理世界)であるとして、それすらも揺らすのが振動であると思うので、だから人体の中に音を発生させる器官が在るというのは即ち…人間には、過去も未来も変えられる力があるのではないか?と、考えている。

たとえるならば、絵やテレビといった光に属するものが飾ってある家があったとして…それすらも地震は揺らしてしまうので、光速よりも振動の方が影響力が強いというような感じ。

もっと言えば、地球や太陽が在って…その宇宙空間が揺れたとすれば、光速での観測方法にはある程度の矛盾が生じるということになる。

そして私は、宇宙というモノはおそらくは常に揺れ続けているだろうと『感じて』いる。

静止している宇宙空間なんてあり得ないように思えるからだ…だから時間観測なんかも、実は至極曖昧なモノだろうなという直感がある。

またこの種の直感と言うのは、個人の領域というよりかは『集合知』のもたらす作用であると思うのだが、集合知に関して思うのも、特段…競争状態になくとも、また互いの存在を知らない場合でも、人間同士、ある程度思考を自分自身で高めた状態にすると、電磁的なテレパシーが生じていると思うので、自分の思っていることを誰かが体現したり、それを目の当たりにするのはごく当たり前だと思われる。

最早、個人という概念も、ひょっとして幻に過ぎないのではなかろうか?と感じることも多々ある。

話が長くなり過ぎたのでこの辺りで。

※一応、これは芸術に基づいた価値観であるので、当たり前ですが共感を覚える方とそうでもない方といらっしゃることでしょう。共感を覚えない場合でも「こんな風にモノを捉えている人間がいるんだな」と受け流していただければ幸いです。当方も特段この理念を押し通すつもりもないですし、議論する気もないです…というのもそれは、音楽や絵画同様数多ある考えのうちの一つに過ぎないですし、人は変化するので、数年後は全く別の事を言っているかもしれませんのでね。