あなはち、しきまきや、くにつ罪…は、騙しの神、マイナスの神の概念を彷彿させる。
神様てんし様…という祈りばかりでは、プラスの祈りばかりになって、陽転すれば結果的に何処かに暗転する部分が必要となるので、予めマイナスのように見える現象を祝詞するのではないかと感じます。
さて、ちょっと話は逸れるが、サンタムエルテと呼ばれる骸骨の聖母が、南米で信仰されている。
これをごく平面的な見方で断ずるならば悪魔信仰にも見えるが…人の願いというものは、たとえそれが平和についてであれ、必ず誰か(何か)にとってのマイナスを含んでいると、人生の何処かで気づくわけで、おそらくはそれに気付いた人が、人間の恐れる最も強いものとしての死を、聖母マリアの概念と結びつけ、自分の願いの不条理さ、理不尽さを許す存在として、この骸骨の聖母を拝むようになったのだろう。
そしてまた『今も臨終のときも祈り給え』という文句が聖母マリアには不随するので、このイメージが暗転したものがサンタムエルテなのだなと私には思える。
そういうわけで、あなはち、しきまきや、くにつ罪…つまり、禁忌やマイナスを祝詞に込めるという、ひふみ神示特有の概念は、サンタムエルテ信仰に通じるものもあるのでは?と(かなり)個人的には感じます。
…で、話をひふみ神示に戻すと、祝詞というものもこの種の禁忌、マイナスを含んでこそ、宇宙的な働きが増すのではないかと思えるので『あなはち、しきまきや、くにつ罪』を込めて文言を読み上げる事を、一応意識して朗読することにしています。