【朗読】山の人生『二七 天狗の通り道』柳田國男

山で怪異が発生する事と宗教発生と民衆の文化…この関連に柳田國男は着目したわけだが、では何故人は自然を畏れるのだろうという素直な疑問も生じてくる。

この前、近場の渓谷に連れて行ってもらったのだが、火を焚くことの出来る砂利の河辺に来た途端、急に『大勢の人がどやどや来て居る』ような感覚に陥った。

しかもそれが明白に『怖い』のである。

実際には私たちのほかにはその時誰もいなかったのだが。

そしてまた、後から人が来ただけで、実際に何故か脅威に思えたりもした…声が妙に響くからだろうか?と後々理由付けしてみても釈然としない。

『自然』というと、優しさとか慈しみとか雄大さとか善の印象を受ける、しかしおそらくはイメージに過ぎないのであろう…現実の自然は依然として、ある意味では人間と並行線上にあるようにも思える。

というのも、庭や花壇ですら、放置しておいたら…植物たちは人間をものともせずに独自の勢力を持ってしまうのを、体感として理解するときが多々ある。

自然の真っ只中に居るときというのは、案外、安らがないものなのである。

…だから頭の中で勝手に畏怖なる空想が組み立てられてゆくのだろうな。※ただし、別段その空想のすべてが作り事というのではなく、むしろ自然の地に宿る地場の力や根拠そのものや、人間の脳に働きかけて形成された残像は、意外と、真に本当なのだろうなとも思う。