いやはや本当に、遠野物語を30代のうちに読めてよかった!
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
登録者が増えた事については私も驚いているが…まあそれは柳田國男というパッケージのなせる業という側面も大いにあるのを真摯に認めるしかない上(あとはGoogle側の匙加減)、具体的には編集技術(主に計算)を頑張った感覚の方が強く、実は熱量としては当初とあまり変化していない。
そして作品と呼ばれるものは、鑑賞された瞬間に作者の手を離れて独り歩きを始める。
だからその解釈や、作品の必要な時期、もたらす影響なんかは…公開した瞬間から製作者の意図を超えてゆく。
(以下主観的な話になります※朗読にはあまり関係ないです)
さて、ちょっと話は逸れるけれど、遠野物語は、あくまでも私のイメージの産物です。
同じように、世を騒がせている『タイトル』『感情』『善悪』なんかも、報道機関のイメージの産物なのだなあと、つくづく思います。
物事が起こった時、それが伝えられる瞬間…というのは、私が台本をまとめて、録音をして、編集をして、さあ公開!というのとほぼ仕組みは同様で、それが世界にオンエアされた時というのは、既にすべてが終わった後ということなのでしょう。
そして『作品』は独り歩きを始めます。
受け取り手によって種々に解釈されます。
『作品』というのはひどい言い方かもしれないけれど、俗にいうニュースというのは『ニュース作品』以上でも以下でもないと感じるのです。
柳田國男が自身の遠野物語を『人の耳を経(へ)ることも多くなく人の口と筆とを用いることも
甚だ僅(わず)であった点、すなわち話の純粋性においては…(純度が保たれている)』と解したように、反対に、起こった事象に対して経た伝言状態が多ければ多いほど…またそれが個人を超えて企業や国といった巨大伝言装置を経るに至っては…話の純粋性は否が応でも失われるのである。
本当にこの点は、柳田國男の言う通りである。
だから変な話、メディア(という膨大な伝言を経た発信源)に、最早舞台劇の塩梅で登場する『ヒドイ人』とか『かわいそうなヒト』といった人たちが本当に実在するのか?あるいはその真意は何なのか?なんて、外側からじゃ誰にもわからないと思うのです…柳田國男が遠野の話を聴いて傾倒したように…単に受け取り手が『そこからさらに勝手に物語を作っていく』ものなのだと思います。
果たして人間がいつまで『現象を物語として捉えるのか』はわかりませんが…いずれ成長して『おとぎ話』に飽きる時期が訪れると私は感じます。
そのような時には、おそらく芸術という概念も終焉に至るでしょう…嘘と真実の境目が、本当にインスピレーション領域に至れば、特段…表現を芸術と呼ぶ必要性もありませんから。
芸術と日常の境目は無くなりますから。
よって、自分の生きる時代というのは、芸術の終焉期なのかもしれない、『物語』思想の終わりの時期なのかもしれないと思う時がある。
ある程度この種の事に意識が及んでも、個人としては、受けたインスピレーションに対しては、素直に表現をやるしかないのが歯がゆいところ。
現実的には、ただただ作品に於いて精進したいと願っています。(朗読は最近の趣味なので、その他の事も引き続きやる予定。)
私の作品を楽しんでいただければ幸いです。