ショートショート【アカペラ少年】

ステージの中央に立つアカペラ少年はにこやかに唄っていた、たった一人の男子中学生に大勢の拍手が浴びせられる、アカペラ少年は妙に場慣れした様子でお辞儀をした。
奥様方、ご静聴ありがとうございます、とでも言いたげに優雅に礼をした。
制服のスカートがきつい、どういうわけだか胸を締め付ける構造の紺色のベストもきつい、この沸き立つ空気も…私が吸うには色彩が明るすぎる…少女はそう思い身を固くした。
私だけが余計なんだ…少女は進行表を握りしめて祈った…どぶの中の藻になりたい、青緑色の藻になって騒がしい世界から逃れたい…
手に握った合唱コンクールのプログラムから、湿った匂いがした、彼の歌を聴いて汗をかいていたのだ、会場中が妙な熱気に包まれているのを少女は感じ、身震いした、自分が感動したという事を少女は許せずにいたのだ。

翌日も、翌々日もアカペラ少年は晴れやかな様子だった、教室はいつもワックス臭く、少年たちは一人の例外なく粗悪で(ゴミ処理場が近いのでダイオキシンの影響かも知れない)、少女たちは冷酷だった(これもダイオキシンの影響なのかもしれない…)。
紺色の制服の群れは一塊になって移動した、次の教室へ、次の教室へ、次の場所へ、辿り着けない場所へ。
群れの中で件のアカペラ少年だけは心の底から声を出して周囲に唄いかけていた…少なくとも唄うときだけは彼の本心が見えるように少女には聞こえた。
…息が苦しい…
少女は日常的に酸欠を起こしていたが、その酸欠を起こしているときにもアカペラ少年は仲間と思われる連中と喚きながら騒いでいた、実に自由気ままに、少女の吸う分の空気までもを我が物にし、唄っているかのようだった。
あんな風に自由に空気を吸ったり吐いたり出来たら、見える景色も違うのだろうな…少女が心の内側でアカペラ少年を羨み始めたのはその頃だった。

教室の窓から秋の光が差し込み、前に座る誰とも形容出来ぬ黒い髪に一瞬虹色のかかるのを少女が秘かに見つめていたときに後ろで奇声がした、彼だった、彼等だった。
その瞬間自分の身体が椅子ごと押されたことに少女は気付き、身体ごと振り返った、少年たちは暴れ、笑い狂っていた。
「死ね」
と小さく口にしてみたが誰にも聞こえていない、まじ死ね、と尚も口にしてみたが誰にも聞こえていない、少女は席を立ち、自分の机だけを直してから横目で少年たちを見た。
「あ」
と思ったときにはもう遅かった、なるべく接触は避けたかったが…件のアカペラ少年が目の前に居て人なつっこそうに微笑んでいたのだ。

「ごめんごめん!」
何の屈託も無い様子でアカペラ少年は少女に謝った、少女は自分の呟きが聞かれていないか冷や冷やする一方でこう思った。
…仮に私が今「お前ら煩いんだよ死ね」って叫んだところで、こいつは「ごめんごめん!」って返してくるのだろう、そして次の瞬間には彼女とヤッたかどうか、みたいな下世話な話をして周りを盛り上げるんだ…
少女はアカペラ少年に向き直った、一秒にも満たない間、秋の光の中でアカペラ少年はにっこりと笑っていた、意志とは無関係に微笑んでいた。
アカペラ少年のつやのある黒い髪の毛と、脂ぎった頬、ひどく痩せた身体、凸凹の歯並びとを少女は見て俯いた、完璧だった、存在が完璧だと少女は思った。
彼だけが世界から許されているような気がして少女は悔しくなった。
今、彼ほど紺色のブレザーにしっくりと身を包んで居る人間は居ないような気がして、少女は唐突に顔を上げ、アカペラ少年を見据えた。

「あんたさあ、唄うとき以外、全然本音で喋ってないよね?」
とは言わなかった、言えるはずもなかった、アカペラ少年は今や時の人だった、いきなり話しかけて良い相手ではなかった、そしてどうあっても彼は笑っていたので喧嘩出来る相手ではなかった…その点がまさに少女を秘かに怒らせる要因となっていた。
「私たち、同じような制服着てるけれど全然違うよね」
とは言わなかった、言えるはずもなかった、そんな抽象的な話をしてよい相手ではなかった、彼への話題はエロ話か馬鹿話が最適だと思われた。
「…なんであんなに楽しそうに出来るの?全然楽しくないときもあんたって、楽しそうにしてるじゃん…」
とは言わなかった、見ていることがばれるので言えるはずもなかった、羨んでいるのがばれるので言いたくもなかった。
「あんたが自由に吸ってる空気、あれ、私の分も含まれてるから!」
とも言わなかった、過呼吸による被害妄想、そんなことは少女自身がわかっていた、そこに妬みや願望が込められているのを自覚していた。

つまり何も言えなかった、合唱コンクール以来、まるで世界に許されたようになっているこの完成された少年に、少女は何も言うことが出来なかった、少女はアカペラ少年に対して少し頷いてみせただけだった、「大丈夫だよ」、そう仕草で伝えただけだった。
アカペラ少年はこのたった一瞬のやりとりを既に忘れた様子で少年たちの紺色の群れへと踊るように戻っていった。
アカペラ少年は帰宅して、自炊するのだろうか?
アカペラ少年の父親はどのような人物だろうか?
アカペラ少年もまた、自分と同じように怒られ、殴られているのだろうか?
アカペラ少年もオナニーしているのだろうか?
アカペラ少年は…あの学年一番の文武両刀の美少女と、セックスしているのだろうか?
アカペラ少年は、泣いたりするのだろうか。

「命名!!守護ガタイ神!!」
体育教師をそう命名したらしいアカペラ少年らは、また椅子を蹴飛ばし始めて笑っていた、教室の中は暖房がぬるく効いていて最悪だった、アカペラ少年も笑っている、だけどわらっていない。
…あたしは笑いそうなのに…少女は体育教師のガタイの良さを思い浮かべて笑いを堪えた、制服がきつい、息が苦しい、家に帰りたくない、こんな馬鹿げた事に笑いそうになっている一人きりの自分にこれほどまでにうんざりした事はなかった。
…だってあいつは、わらってないのに…
少女は笑いを堪えながら、酸素の薄さについて考えを巡らせた、あいつは本当は空気を吸ってなんかいないんじゃないのか?
一秒一秒が呼吸との戦いであることをアカペラ少年は知らない。
アカペラ少年よりも少女が馬鹿な事をアカペラ少年は知らない。
この世は怖いものだ、だから勉強が出来ない奴は死ぬしかないんだ、そう言って父親が殴る事をアカペラ少年は知らない。
…私が毎日泣いている事をあいつは知らない、笑ってばっかりのあいつは毎日泣いている人間の居ることを知らない…
そしてアカペラ少年の笑顔が実に上辺だけのものである事を、誰も俺の本心には気付かないとたかをくくっているアカペラ少年の態度を、少女が知っている事を、アカペラ少年は知らない。

「あんたの唄ってるときの声は深い深い青緑色だよ、どぶの中に生えている藻の色、苔の色、人間からかけ離れた美しい色」
もしそう話しかける事が出来たのなら、私が友情と思うものが真に完成するような気がする…少女がこう思っていることを、アカペラ少年は、まだ知らないのであった。