仏教=聖書、現代の偶像崇拝※朗読とは無関係の個人的意見です

全く個人的な聖書解釈だが、【仏教に於ける悟り=聖書に於ける神に従う状態】だと思っていて、私個人は幼いころには仏教徒だったので聖書は禁書扱いで、その世界観を知らずにいたが、今読んでみるとなるほど、人類共通の目的というものはおそらく同一なのだろうなと感じずにはいられない。

仏教に於ける悟りの状態…というと、なんだか穏やかで柔和でどんなことにも感情を制しているような自我喪失に近いものを感じるが、これを聖書に於ける神の命令に従う状態に喩えると納得がいく。

例えば聖書の中でとある預言者(ヨナ)は神からの命令を断る。なぜなら同国人の中で浮いてしまうからである。彼は神からの命令よりも、同族の中での体裁を気にしているのである。しかしそれでも命令から逃れることは出来ず、ついに神からの命令を実行に移す。

これを仏教に喩えると、個人のカルマから逃れることは出来ず、それを脱却するために勇気を振り絞ってカルマ離脱のための行動を起こす、ことのように感じる。

この時傍目には、両者ともに『自我の強い人』『集団の中の常識とは反することをやる人』『わがまま』に映るだろう。

閃いた事について自発的に行動している最中、というのは実は自我から離れている時なのだが…体感としてこれをわかる人がどれだけいるのかは不明であるし、本当に皮肉なことにこの自我滅却状態を指して真逆の感想を持つ風潮が、おそらく古今東西あるのだと感じられる。

しかし、恥ずかしがって体裁を整えて表面上だけ柔和に取り繕う事を続けていたら、仏教的にはカルマは加算され解脱から遠のき、聖書的には神のみ旨に背いている状態となる。

※(超個人的意見です)また偶像崇拝についても、私は個人的には【偶像崇拝=権威崇拝】だと思っていて例えば医者等のエリート層を盲目的に支持している状態なんかは典型的な偶像崇拝信仰に陥っていると見なしている。その被造物は私たちと同じように飲み食いし、私たちと同じようにくだらないただの人間である、ただの神からの作り物に過ぎない、この点では本当に偶像であると感じている。

ここで少し言いたいのは、感謝と崇拝とは別物だという事だ。

誰かに対等に感謝することは素晴らしい。

だが、こともあろうに関わったこともないような人、直接の利害関係の無い権威者を神様のように崇めた挙句、自らの生活のみならず他者の行動の是非までもを委ねるのは…これはまさに神が禁じている悪しき偶像崇拝そのものだと感じている。

偶像崇拝について今まで全くピンと来ていなかったが、【一読者として】この2022年の夏、聖書を読んでいて【個人的に】感じたことだ。

遠くで花火が鳴る、蝉が窓に幾度も当たる、静かな静かな夏の終わりの夜。