詩音楽 範奏と読み手の奏でる詩(うた)

冬至を経てからの朝焼けは、やけにロマンチックで人工的とすら言える青っぽいピンクだ、つまりこの写真は夕焼けである。夏の夕焼けは辺り一面にオレンジ色が広がるが、冬は一点集中型の柑橘系の色。一説には朝焼けと夕焼けの科学的差異は無いらしいが…それを観測する生き物であるところの自分の両眼のピントが、季節や時間によって宇宙的な調整を受け、それぞれに色が変化して見えるのだろう。

遥か昔実家に居た頃は夕方になると母親が経をあげる声が静かに響いた。それに範奏するようにりんの音が広がるのが実に音楽的であった。大きな集会所に行くとそれはもっとロック的な風潮を帯びる、大勢が声を合わせ、香の匂いだの、さらに大きなりんの音だの、数珠の擦れる音だの…こういった諸々の音が一つの空間を満たしてゆく。

それが原因(?)かはわからないが、私は『歌詞の意味の解らない音楽』を好むようになった。英語はからっきし駄目なくせに洋楽やら、インドのダンドゥットやら、ロマ音楽なんかを聴いている私によく周囲の人は『歌詞がわからないのに聴くの?』と不思議そうにしていた。

私にとって音楽はお経であり、より不可思議なものや、祈りに近い雰囲気のものこそが至高であった。だからアンビエント的な音楽を好んでいるのだと思う。ただ…では古来からのお経を聴いていれば満足するのかと言うと全く違い、そこに新しい試みを感じた時にハッとする気質である。

言葉というものも元来音楽的なものだと私は思う。元を正せば全て、物語というものは口伝で受け継がれてきた。そこに不可思議なリズムがつき、語り部自身が時に歌うように、踊るように、ともすると範奏もついたかもしれない…普段の喋りと語り、歌と踊り、それらが至極曖昧になったところにこそ、音としての声の在り方が見て取れるような気がする。

恥ずかしながら…私は、およそすべての勉強が苦手だったので、当然ながら国語の時間というものもまた苦痛であった。あのシーンと静まり返った閉鎖空間の中で、ロボットのように書かれたものを無表情に読み上げるというのが、今思い返しても不快である。よって…(よく勘違いされるが)『日本文学』なるものが私は苦手で、その苦手意識故に現在までほとんど読んだことが無い。正直、あれで文学好きになる奴の気が知れない、国語の授業で文学が好きになる人間が居るとすれば芸術的センスの全くない人間、さらに言うと音楽的センスも皆無だろうな、とすら思って居る。

辛辣な言い方をしてしまったが、漠然と『文学好き』をイメージしたときに誰もが思い浮かべるのが、真面目すぎる人、堅すぎる人、一言で言うと身体に動きの無さそうな人なのではないだろうか?つまり踊りや歌が苦手そうな雰囲気…音楽性の欠如なのではなかろうか?この音楽性の欠如、言葉と音楽との不自然な分離をしたのが学校教育の欠点だと思う。だからあながち私の推察も間違ってはいない気がする。

そして今朗読録音をしていても…著作権の関係上、読めるものは基本的に青空文庫から引っ張ってくることになる。今、現代人が法に触れずに読むことのできるのは、結局明治以降の不自然な、言葉と音楽が分離されてしまったものしか無いのだ。言葉と音楽が人工的に分離され、言葉、文字、というものに声を最適化させて読む…朗読読みというものは甚だ不自然な読み方なのだと気が付いてしまった。江戸時代くらい昔の粋な人から見たら、朗読読みや教科書文学なんてものは、坊さんの念佛よりもさらに音楽性の無いもの、至極野暮なシロモノに違いない。

そう、朗読読みは言葉の持つ音楽性が欠如しているので、野暮という感じが否めないのである。

じゃあどうしたら野暮じゃなくなるのか?どうすれば音楽性を備えることが出来るのだろうか?こう考えると、じゃあ音楽を足してしまえばいいじゃん!!と閃く。しかし音楽を足すといっても、朗読に、とってつけたような範奏をしたらそれこそ一層ダサくなる。誰がどう見てもわかるBGMが朗読に付随しているものは好まない。じゃあもっと曖昧なもの、お経に於けるりんのようなもの、朗読音声が主体なのか、あるいは音楽が主体なのかわからないもの、時に声をかき消すようなノイズや音や光、全てが溶け合うようなもの…

物語になると、一応は声が主体になってくるのですべてが混ざり合うようなものは困難だろうが、詩ならどうだろうか?範奏と読み手の奏でる詩(うた)みたいなもの…。ふと思ったが、稲川淳二なんかはまさにそれを体現しているのだなと合点がいった。

音楽詩、または詩音楽のようなものを作りたい…想像は膨らむ。