絵、朗読…聖書、ひふみ神示、遠野物語

この写真まだ使ってない…よね?と少し不安になりながら使用。

今年は何枚か絵を描いて、それを動画にしてネットにアップしようと思っているが…そのためにまたゴープロとかの機材を買わなきゃならないのが痛いところだ。

【(ジャンル不明の)絵を描いた時にどこに出せばいいかわからない問題】がYouTubeのような共通ネット上で解決する時代なのはありがたい。個展という在り方を否定するわけではないが、そこに来る人というのがもうおそらくは…かつて美術を愛好していた知識層ではないだろうな、というのを感じているし、どちらにせよ私には縁がなかった。

ただ、絵や朗読というものが心の同一の場所から来るわけではないので、また新たなチャンネルでも設けるしかなく…なるべくなら30代のうちにやっておきたいと考えているが、動画編集だとか映し方といった技法も含め、じりじりとした時間を過ごしそうな予感がする。

物事を習得しようとしている時って、非常に進みが遅いように感じられる。

朗読では、ひふみ神示というものを読みたいと思っているが…著作権に関して言うならば、あれは戦時中の神様が著作者である以上、厳密な意味での製作者不明ということで、公開時から70年経ち、もう著作権は切れているはずである。

ただこれも如何せん戦時中に書かれただけあって、(三国同盟の)イタリアやドイツをそこまで信じるな…等、ちょっと変えなければならない箇所も見受けられる。

聖書もこれと似たように、「馬鹿正直に読んでは意味が真逆になる箇所」がいくつもあると感じられる。特に使徒の書簡や黙示録には政治的意味合いが強く(かなり)加筆されているようにしか思えないので、それと新約とをセットに考えていると、かなりの過激派になりがちだ。ともすると聖書というものがほとんど軍隊を生み出す装置のように稼働しかねないことに関しては…空恐ろしいと思っている。

聖書というものを、統治のために使えるように加工した人間が居るだろうなと思えてならない。…聖書を読んでいる人ならわかっているとは思う。

無論、「原文のまま」を主張する原文主義者があるが…私はどうも、その手の人たちって実に律法主義的というか、ただの丸暗記型なのではないかと勘繰ってしまう。

あと聖書の文章を引っ張ってきて、権威を振りかざしたりとかね。おそらくパウロ書簡あたりの支持者なのだろうけれど。

ひふみ神示については内容を公開されている分は全文読んだ(上下巻のみならずすべての巻を朗読稽古してみた)が…聖書ほどには明白な物言いの箇所がだいぶ少ないので、公開されている分は朗読しても差し支えないと判断した。

公開を控えろという意見も見られるが…そもそも我々はその原文なる数字の羅列、幾何学の【ふで】を目にしたわけではないし、仮にそういったものを目にしたとして、それを第三者に伝えるだけの和訳能力はおそらく持ち得ない。

絵を、言葉で人に的確に再現して伝えられないのと同じ事だ。

従って、公開されているひふみ神示について、そんなに憂う必要は無いし、第一に…繰り返しになるが、明白な物言いの箇所が少なく、ハッキリ言ってどうとでも捉えられる文言なので、それを朗読しても解釈の仕方は千差万別だろう。

またひふみ神示を読むことによって、これを広めることは著作物の侵害どころか、かえってその種の本の売り上げに貢献すると思われる。

著作物に関して思うのは…やはりオリジナルの力だ、その人本人がこうした概念そのものを作り出した(ないしは神がかりになったり閃いたりした)場合にのみ作用させて然るべきであり、そもそも在るものに関しては作用させないほうがかえって利益が出るのではないか?

録音機材のセッティングを変えたり、マイクテストしたりして日々が過ぎてゆく…。

遠野物語も同時に読もうとしているが…こっちのほうが古語に近く苦戦している。柳田國男は何となく若いころからおじいちゃんっぽかったのではないかと思えてならない。

ちなみに私にとって聖書、ひふみ神示(去年知ったばかりだが)、遠野物語や山の人生は、民族の息吹という点ではほとんど同じものである。

どうかこれらの事が私に許されますように。

そしてこれらの事…朗読や絵を見聞きした人の実りが豊かになりますように。