自分の中のキリストから逃げずに居られたと思います。

聖書には、神は悪すらも造られたと書いてありますが…

では、悪とは何だろうか?

世の中のほとんどの人が『悪』という独立した脅威を潜在的には信じている気がするのです。

そして『悪に対抗する事を正義だと思っている』のではないか?

勿論実際はその半数くらいが『悪によって成り立つ正義に付き合ってあげている』、いい意味では『悪への恐怖に同情』し、悪い意味では『相手の恐怖に妥協して付き合ってあげている』のだと思います。

でもその妥協によって、本来無いはずの悪を、かえって作り出してしまう現象が起きているのです。しいて言えばそれこそが諸悪の根源なのではないか?と私は思うのです。

私個人としては、自分自身が世の中を作り出していることに気が付かないでいることは、一種の罪だと思うのです。そしておそらくこれ以上の罪はないのです。

自分自身が宿命的に体現者である、ということに無自覚なこと…これこそが究極の無知でもあると思うのです。

この罪、この無知の故に、キリストは磔刑に遭ったのでしょう。

キリストから逃れた人は、現実的には助かったのだと思います。見捨てた人たちは恐ろしいゴルゴダにて、磔刑に遭わずにホッと胸をなでおろしたのだと思います。この卑怯さは許されているのです…。

キリストというのは心の真実な部分の具現化だと思うのです。

真実で素直な部分をそのまま体現したら…社会的に転落するのではないか?』そのようになる、と我々は散々脅されてきたと思います。

人間の大多数が『悪』を信じる怖がり気質を利用され『悪を信じないものは磔刑に遭う』『素直に行動すると磔刑にされるぞ』と子供時代から脅されてきたのだと思うのです。

※もっとも、悪が幻だと語る私自身は善人でもないし、社会のヒエラルキーをはじめ、法律や戒律についてすら疑問視しているくらいですので甚だ反社会的だとも思います。悪を恐れるその気持ち自体を軽視しているのだとも思います。…ただ、自分の振る舞いが即実社会に反映するという自覚はありますので、その事に関しては自ら責任を取る覚悟はあります。

…現に今年は度々そうしてきました。

つまり現実的な意味で、自分の中のキリストから逃げずに居られたと思います。独善的ですが、仮にそれが人の『感情』を傷つけたり、『その場の空気』を壊したりしても、私はこちらの道こそを善と思うのです。

これは別にどの時代、どの地域であってもです。どこに生まれようと私は直感的善を信じて行動するでしょう。…そうでないと自分の振る舞いに責任を持てないからです。個人として生まれてきた意味がないと思うからです。

では私の思う善は何なのか?

それは、悪を信じず、仮に悪の働きと思しきものがあったとしても、大きな意味でその悪を排除しようとしないことです。

悪(のように見えるもの)を抱きしめる形で、すべてが渦を巻いて栄えてゆく…それが神のこの世の現れ方だと私は思っています。

さて、2020年元旦から…この丸3年間、朗読稽古と称して毎日30分練習してきまして、ようやく自分でもなんとか形になってきたかなと思えるようになりました。これからも続けてみます。今は柳田国男の『山の人生』を現代語訳しています。