ヒトと水と音の関係性その1(ヒトは海の生き物)

白鷺と鵜の忘年会

毎年この時期になると白鷺が、目の前の小川に集まってくる…冬至近くには二十羽以上で徒党を組んで、辺りを小一時間ほど旋回した後、そのまま円を描くように東へ向かって鵜と共に飛び立ってゆく。

白鷺の忘年会、と私は呼んでいる。(現象としては『鷺山』と言うそうだが、普段はこんなに群れておらず、一羽や二羽で点在しており、冬至にのみ集まってくる…私の自宅前に。そして彼らはあまり鳴かないので、静寂の中、真っ白な翼が幾重にも連なって滑空する様子は、まさに絵画でも観ているようである。)

水辺にはこのような不思議現象が起こる。

さて、朗読(稽古)をしていると、『ヒト(の身体)は海の生き物の一種なのだろうな』という体感を得る事がよくある。

どういう事かと言うと、録音用の部屋というのはかなりの小部屋で、当然そんな密閉空間に籠っていたら二酸化炭素濃度がとんでもないことになっているであろう…そのような酸欠状態に近づくと、肺が膨らみ、さらにそれが進むと背中まで膨らんで呼吸することになる。

複式+肺+背中呼吸みたいな状態。

これ、多分、水泳の呼吸の一種なのだと思うけど、人間は酸素濃度に合わせてこんなにも、呼吸に関して変形可能なのであるということを体感する。

録音するときや朗読をするときに、いつもよぎるのは『ダイビング』とか『素潜り』のイメージ…どちらかというと本気の素潜りに近い。

息が続かない事って一見悪いように思えるけれど…『意識して』ある程度の低酸素状態?に身体を慣らすことは、私にとっては『我』の部分がうまく消えてくれるのでインスピレーションと繋がりやすい気がしている。(※ただし、意識せず、漫然と低酸素状態に甘んじたり鳴らすのは一番危険だと思っている。無力無抵抗無気力になってしまうので。)

そうなってくると、音というものを発生させる装置(腹部や肺臓や声帯)が我々人体に内蔵されているという事が、ごく自然に納得できる。

つまり、元々海で、水の中で音の波を発していたのが人類という種なのだという感覚に陥る。

そうすると、人類が何故皮膚を露出しているのかもよくわかる…互いの音を、『水の振動』として受け取るためには、表皮が柔らかいほうが好都合である。

どうも私は、猿から人類が発生したとはどうしても思えないのですよ…おそらくは全く別の種だろう。

そして話は飛ぶけれど、イエスキリストの水の洗礼なんかも、水の波長をそのまま受け取らせるために『体内の水分を変換させるために』水に潜って新たに生まれる状態を作っていたように感じられる。

それくらい、水と音との親和性は近い。

音というと空気振動のように思えるけれど、実は水に振動が『入り込み』『ほとんど半永久的に振動を保ち続ける(振動し続ける)』作用があるように思えてならない。

白鷺たちも、川辺に『冬至には鷺たちが寄り集うという思い出の振動』を感じているので、同じ時期に同じ場所に集まって来る…という一面もあるように思える。

だから、水辺には不可思議な現象が多いのかなと思う。(つづく)