人の幸福感を抑制させてはいけない(ブログ)

数日前、いつもの早朝ゴミ拾いを終えて帰宅し、呑気に朝飯を食べていたらいきなり大きな地響きめいた爆発音を感じた、聴こえたというよりも体感したと言った方が適切だろう。

当たり前だが突然の事だったので大いに驚き、すぐさまその場から逃げた…しかも人為的というよりかは大自然、もとい、宇宙規模の異変のように思われた。

何か空から襲撃があるような気がして、姿勢を低くしたまま『食べれるうちに食べとこう』と思い、結局自分のテーブルに戻り、空腹に任せて怯えつつ食べ続けた。

これが、自分の体感したことであり、自分自身の真実でもあり、尚且つ事実でもあった、つまりそれ以外に実は何もないのである。

調べてみたところ、とある情報によれば、どうやら大き目の隕石が群馬県近辺に落下したとの事らしい…関東の人間であれば気が付いた人も居たかもしれない。

しかしながら、この情報に関して、私がありがたいと思ったのは…『これが(情報発信者にとって確信のある)嘘であっても、(情報発信者にとって確固たる)真実であっても、どちらでもかまわない、単に情報のひとつを提示してくれたことにより、受け取り手の心が軽くなった』ということに関してである。

さて、生きてきて思うのは、日本という国は結構災難が多いということだ…人災も含めて。

そして私自身にも災難は結構あった、主に子供時代だが。

しかしこうして中年になってみると、同情と共感は別物だよなあ…ってこと。

私が現に数日前に体感した隕石落下と思しき(というのも私自身は隕石を確認していないので)大規模な爆発振動についても、私は確かに怯え切っていたし、はっきり言って誰かにその時そばにいて同情してもらいたかった、誰も見向きもしないのが孤独であった…が、小一時間もするともうそんなことにいちいち心を割いている場合でもなくなった。

子供時代の災難も同じで、私は正直言って同情を求めていたが、なかなか同じ境遇の人というのは居ないモノで、それは…言い換えれば、誰も明白に不幸にならずに済んだ分、割合としては幸福な人の割合が比較的多かったとも捉えられるわけで、実はその方が全体の幸福につながっているので、巡り巡って私も幸福の方に引っ張られていったのではないか?と感じられる。

つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。

ややこしい話になるが、震災などがあると、『同情しない人=悪』という図式の出来上がりやすい国民性が浮き彫りになるが…これこそ日本の悪しき風習だなと感じたりする。

だって仮に、過去の私の不幸に対して、多くの学童が当時の私と同じ境遇のような同情体験を寄せたとしたら、きっと今尚、不幸から抜け出せていないばかりか、次の世代にまで不幸思想が伝播した事だろう。

そういう意味では、真に共感するやり方としたら、何が起こったかについて一応は調べるが、『そもそも自分の身に体験していない事、見ていない事については、変な同情をせず、もし実際的に援助できるのであればする』『そして自分が楽しいと思ったり、成長できることをきちんと楽しんで過ごし、自分の周囲に(楽しいと思える程度の)奉仕をする』のが良いような気がする。

私もね、子供時代は、ほんと繰り返しますが…大いに同情を求めていましたので、昨今に子供として生きていたら、楽しむことをとことん自粛し、周囲の成長の足を引っ張っていたかもしれない。

自戒を込めて、不幸体験がどんなに悲惨なものであれ、人災、自然災害、なんにせよ正当性のある被害者だったとしても、実際に物事を体験していない人の幸福感を抑制させてはならないと肝に銘じているのです。

同情の強要はもう、アウト、ダメだな…と思います。

勿論、目の前にいる人に『助けて!!』って言うのは全然OKどころか推奨します、もう大いに助けられてほしい、誰もがみんなそうやって助かればいい、そうしたらつらい思いをする子供も減るでしょう。

だからこそ…冷たいけど、実際に関連のない人の心配とか…それも言論統制のされた情報を元とした同情の強要には乗らないようにしている。

そんなに何かしたいのであれば、実際の自分の周囲の人に手を差し伸べた方が全体の利益になるから。

身近なひと…それも物理的に、たとえば駅のホームで隣り合った人への【自分の幸福や権利を主とした、従としての共感/場合によっては援助、救援】が【現実的に】出来るのであれば、画面越しの誰かの心配をせずとも、世界は自動的に救われるような気がしている。

そういう人間になりたいと思ってゴミ拾いをしているわけです。